平成16年10月2日

犬養毅 いぬかい・つよし

安政2年4月20日(1855年6月4日)〜昭和7年(1932年)5月15日

岡山県岡山市吉備津・吉備津神社の駐車場でお会いしました。


号は木堂ぼくどう
備中国生まれ。慶応大学中退。
新聞記者から官僚となったが明治14年の政変で下野。
第1回総選挙で当選。
以後、立憲改進党・進歩党・憲政本党で活躍。
明治43年(1910年)立憲国民党を結成し、第1次護憲運動では尾崎行雄と並び「憲政の神様」と称され、第2次護憲運動でも革新倶楽部を率いて活躍。
大正14年(1925年)同倶楽部を立憲政友会と合同させて政界を一時引退。
昭和4年(1929年)政友会第6代総裁になり、昭和6年(1931年)末には内閣を組織して金輸出再禁止を実施、満洲事変の処理をはかったが、翌年の5・15事件で殺害された。
辛亥しんがい革命を支援したアジア主義者でもあった。


犬養毅像

『犬養毅』像


かなり高い位置に銅像があるので撮影には苦労します。
午後に訪れると逆光気味になるのでうまく撮れません。
朝早い時間に訪れると良いかも知れませんね。



(平成16年10月2日)

犬養木堂いぬかいぼくどう先生 銅像の説明

犬養毅つよし(木堂と号す)は安政2年(1855)に備中国賀陽かよう郡庭瀬にわせ村(現在、岡山市川入に犬養源左衛門の二子として生る。
明治8年(21才)上京し慶應義塾に学ぶ。
明治10年(23才)西南戦争起るや従軍記者となったが、その後、文筆と雄弁をもって政治運動に入り、明治23年(36才)衆議院議員となる。
明治31年(44才)文部大臣に任ぜらる。
その後、立憲国民党、革新倶楽部等を組織し、「憲政の神」と称せらる。
大正13年(70才)逓信大臣、昭和4年(75才)政友会総裁となり昭和6年総理大臣となる。
しかるに、翌昭和7年(1932)いわゆる5・15事件勃発し過激派のために官邸にて暗殺さる。
享年78才、正二位・旭日桐花大綬章を追贈せらる。
毅の生家(此処より南方へ約3キロに現存)は代々庭瀬藩の大庄屋、その遠祖犬養健命いぬかいたけるのみことは大吉備津彦命の随神なり。
よって氏神吉備津神社のため尽瘁じんすいするところ多し。
毅の没するや郷党の人々その高風を慕い、昭和9年この地に銅像を建つ。
作者は朝倉文夫、雄姿堂々として天下を睥睨へいげいするの概がいあり。

(説明板より)


吉備津神社



官幣中社吉備津神社

(岡山市吉備津931)




(平成16年10月2日)
本殿と拝殿 本殿(国宝)と拝殿(国宝)

応永32年(1425年)の再建
神社建築では日本屈指の巨大なもので、特異な形式から『吉備津造り』といわれています。

生家

犬養木堂生家
(岡山県岡山市川入)

開館時間:9時〜17時
閉館日:毎週火曜日・祝日の翌日・年末年始
入館料:無料


(平成16年10月2日)

木堂生家

昭和52年4月 岡山県史跡に指定
昭和53年1月 国重要文化財に指定(主屋・土蔵)

犬養家じは、代々この地方の大庄屋や郡奉行を務める旧家であった。
この犬養木堂生家は、昭和51年に犬養家から岡山県に寄贈され、(株)大本組の創業70周年記念事業として無償施工により解体修理されたものである。
その結果、柱や梁の跡形をもとに、正徳年間(1711年〜1716年)に大庄屋を務めた4代目源左衛門の代に建て替えられた当時の姿に復元されている。
修復前は、19世紀のはじめごろに家相図(国指定重要文化財)に見られるように改造されるなど、かなり変更が加えられていた。

(記念館のリーフレットより)

庭と井戸 裏庭と井戸
座敷 奥座敷
生家内部



生家内部






(平成16年10月2日)

犬養木堂記念館 犬養木堂記念館
(岡山市川入102−1)

開館時間:9時〜17時
閉館日:毎週火曜日(祝日は除く)
      祝日の翌日(土・日は除く)
      年末年始(12月28日〜1月4日)
入館料:無料
交通:山陽本線庭瀬駅下車・タクシー5分、徒歩25分

木堂記念館

この記念館は、平成5年10月に開館したもので、平和を愛し、平和に殉じた岡山県の生んだ大政治家・犬養木堂翁の足跡をしのぶ遺品、遺墨、写真、手紙を展示している。
展示資料は、木堂翁の子女多田信子氏、孫の犬養道子氏、犬養康彦氏から寄贈、寄託を受けたもの、木堂翁の顕彰に力を尽くされた秋田市の故鷲尾よし子氏をはじめ木堂ゆかりの方々から寄贈されたものである。

(記念館のリーフレットより)

記念館の中庭
記念館の中庭


記念館は生家から小川を隔てた隣に建っています。
展示品の中で感動したのは、犬養毅の肉声。
教え諭すような語り方。
人柄を感じました。



(平成16年10月2日)

研究紀要第2号 木堂雑誌にみる 木堂談叢
平成11年4月 岡山県郷土文化財団 犬養木堂記念館 発行
木堂逸話
平成16年3月 (財)岡山県郷土文化財団 犬養木堂記念館 発行
五・一五事件と私 犬養康彦
平成15年3月 (財)岡山県郷土文化財団 犬養木堂記念館 発行

安政2年(1855) 0歳 4月20日備中国庭瀬村字川入に出生
幼名仙次郎。名は当毅(後に自ら毅と改める)
万延元年(1860) 5歳 父から四書五経の素読を受ける
文久元年(1861) 6歳 庭瀬藩医森田月瀬に漢学を学ぶ
慶応元年(1865) 10歳 犬養松窓の三餘塾に入り経学を修める
明治元年(1868) 13歳 8月父病死(享年49歳)
明治2年(1869) 14歳 自宅の門側に塾を開く
倉敷の明倫館に学ぶ
明治5年(1872) 17歳 小田県庁に勤務(明治7年に辞す)
明治8年(1875) 20歳 8月上京、湯島の共慣義塾に入る
郵便報知新聞に寄稿
明治9年(1876) 21歳 慶應義塾に転学
明治10年(1877) 22歳 報知社から西南戦争の従軍記者として特派される
郵便報知新聞紙上の「戦地直報」は名声を博した
西南戦争
明治12年(1879) 24歳 有志と国会開設建白書を元老院に提出
明治13年(1880) 25歳 慶應義塾を卒業直前に退学
8月「東海経済新報」を創刊
明治14年(1881) 26歳 7月統計院権少書記官に任ぜられる
10月大隈重信の下野とともに退く
明治15年(1882) 27歳 4月立憲改進党の結成に参画
5月東京府会議員補欠選挙に当選
11月「東海経済新報」廃刊
明治16年(1883) 28歳 4月「秋田日報」主筆として秋田に赴く
11月帰京して報知社に復す
明治17年(1884) 29歳 12月郵便報知新聞特派員として朝鮮に赴く
明治19年(1886) 31歳 1月帰京
3月報知社を辞し、朝野新聞社に入社
明治22年(1889) 34歳 尾崎行雄らと朝野新聞社の幹部となる 大日本帝国憲法発布
明治23年(1890) 35歳 2月東京府会議員退任
7月第1回衆議院議員総選挙に岡山県から立候補
して当選
11月朝野新聞社を退く
帝国議会開設
明治24年(1891) 36歳 1月日刊新聞「民報」を創刊
5月休(廃)刊
明治27年(1894) 39歳 5月中国進歩党を組織 日清戦争
明治29年(1896) 41歳 3月進歩党を組織
明治31年(1898) 43歳 6月憲政党を組織
10月大隈内閣の文部大臣に就任
同月憲政党の分裂後、憲政本党に属した
11月依願免官
明治34年(1901) 46歳 7月嵯峨死去(享年77歳)
明治36年(1903) 48歳 9月中国・朝鮮視察に赴き、11月帰京
明治37年(1904) 49歳 日露戦争
明治40年(1907) 52歳 11月中国漫遊の途に就き、翌年1月に帰京
明治43年(1910) 55歳 3月立憲国民党を創立
明治44年(1911) 56歳 12月孫文等の辛亥革命援助のため中国に渡る 辛亥革命
明治45年(1912) 57歳 2月帰国
大正11年(1922) 67歳 11月革新倶楽部を組織
大正12年(1923) 68歳 9月第2次山本内閣の逓信大臣(兼文部大臣)就任
12月内閣総辞職
関東大震災
大正13年(1924) 69歳 6月加藤高明内閣の逓信大臣に就任
大正14年(1925) 70歳 5月逓信大臣及び衆議院議員を辞任
同月政友会長老に推される
7月補欠選挙の結果再選され、余儀なく受諾
衆議院議員
普通選挙法公布
昭和4年(1928) 74歳 6月中国の孫文移霊式に参列
10月政友会総裁に就任
昭和6年(1931) 76歳 12月13日犬養内閣成立(外相兼任) 満洲事変
昭和7年(1932) 77歳 3月内相兼任
5月15日首相官邸で兇徒に襲われ、拳銃で撃たれる
同日夜半死去
上海事変
5・15事件

(岡山県郷土文化財団『犬養木堂年譜』より抜粋)

犬養毅像 平成16年10月2日

岡山県岡山市・岡山市立吉備公民館でお会いしました。

吉備公民館 岡山市立吉備公民館
(岡山市庭瀬)

玄関脇に銅像が建っています。(上半身と下半身のバランスがちょっと悪いですが・・・)
この銅像探しでは『犬養木堂記念館』の職員の皆様にお骨折りをいただきました。本当にありがとうございました。
が・・しかし、写真撮影に失敗!夕方で薄暗いのにストロボ使わなかったので手ブレを起してしまいました。う〜ん、残念。早く気付くべきだった・・・また来るようかぁ〜?
話せばわかるの碑 木堂翁最後の言葉 
話せばわかるの碑

(吉備公民館敷地内)

碑文
昭和35年5月15日建立
犬養木堂翁碑建設委員会
石工 当町大月正光

(平成16年10月2日)

『憲政二柱の神』=犬養毅、尾崎行雄

(平成19年3月6日追記)


望まなかった首相の座

大正14年(1925年)、犬養毅は、自らが率いる革新倶楽部が選挙によって議席を減らしたため、同倶楽部の政綱を受け入れるとした立憲政友会と合同させるとともに、第一次加藤内閣の逓信大臣の職のみならず議員をも辞職して政界を引退した。
反藩閥を政治信念としてきた犬養は、政友会の党首が長州閥の田中義一であったことから、筋を通して引退したのである。
しかし、地元岡山で行われた補欠選挙では、支持者が勝手に犬養を候補者として再び当選させてしまった。
一方、政友会では、総裁の田中義一が急死したため、新総裁の座を巡って鈴木喜三郎と床次竹二郎とこなみたけじろうが激しく対立。
党は分裂の危機に陥る。
これに対して党内の融和派が犬養を担ぎ出し、嫌がる犬養を強引に説得。
昭和4年(1929年)10月、犬養は立憲政友会の総裁に祭り上げられたのである。
その頃、日本は世界恐慌の影響を受けて著しい不況の中、浜口雄幸首相が東京駅頭で射撃され重傷を負い退陣。
後継の第二次若槻礼次郎内閣は、勃発した満州事変の不拡大方針が閣内不統一となり総辞職。
犬養は在野の有力者・頭山満とうやまみつるらとともに、長年、孫文をはじめとする中国の革命家の日本亡命を助けるなど、中華革命を支援していたので、蒋介石をはじめとする中国国民党政府の有力者と親交があった。
満州事変を外交によって解決できる者は、中国国民政府から最も信頼を得ている犬養しかいない。
そこで、元老・西園寺公望は、昭和天皇に野党である政友会総裁の犬養を首相として推薦。
こうして組閣の大命が下り、昭和6年(1931年)12月13日、第30代犬養毅内閣が成立した。
その後、国民の支持を取り付けるべく、直ちに議会の解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。

(参考:『歴史群像 2008年6月号』)

(平成21年2月14日追記)


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