桂太郎像 平成15年7月26日

桂太郎 かつら・たろう

弘化4年11月28日(1848年1月4日)〜大正2年(1913年)10月10日

山口県萩市 桂太郎旧宅でお会いしました。


萩藩士の家に生まれる。
戊辰ぼしん戦争に従軍、維新後陸軍に入りドイツに留学しました。
兵制改革に貢献し陸軍次官・台湾総督などをへて第三次伊藤・第一次大隈・第二次山県の三内閣の陸相(陸軍大臣)を務めました。
明治34年(1901年)、首相となり日英同盟・日露戦争などを処理。
山県系の後継者となり当初対立していた政友会と妥協して、政権の交互担当、第三者の政権からの排除を基軸とする桂園けいえん体制を築きました。
明治39年(1906年)、西園寺公望さいおんじ・きんもちに政権を譲ったが、明治41年(1908年)に再び政権を担当。
韓国併合・大逆事件などを処理して明治44年(1911年)に退きました。
大正元年(1912年)、内大臣。
第二次西園寺内閣崩壊をうけて組閣(第三次桂内閣)、第一次護憲運動に直面し、新党結成で危機突破を図るが程なく退陣しました。
大正2年(1913年)胃癌のため没す。67歳。

(平成18年2月16日改訂)


桂太郎略歴

桂太郎は1847年(弘化こうか4年)11月28日に、萩藩士、桂與一右衛門よいちうえもん(126石余)の長男として、萩城下、平安古ひやこに生まれ、3歳の時に同じ城下の川島かわしまに移り住んだ。

1861年(文久ぶんきゅう元年)、藩の洋式繰練そうれんに志願し、以来、幕末長州藩の倒幕運動に参加する。
戊辰戦争では奥州総鎮撫総督府の参謀添役そいやくとして軍功があった。

明治維新以後は新政府の陸軍に入った。
1871年(明治3年)には兵制研究のためドイツに留学した。
日本の陸軍がそれまでのフランス式からドイツ式になったのは、桂太郎の影響が強いと言われる。
その後、累進して1898年(明治31年)には陸軍大将となった。
同年、第三次伊藤博文内閣の陸軍大臣となり、政治家としても歩みはじめた。

後進の育成にも心を注ぎ、1900年(明治33年)に現在の拓殖大学を創設している。

1901年(明治34年)には第一次桂内閣を組織し、日英同盟を締結した。
その後、1908年(明治41年)に第二次桂内閣を組織し、日露戦争など国事多難な時期に内閣総理大臣として手腕を発揮した。

1912年(大正元年)に第三次桂内閣を組織したが、短期間に終わった。
翌1913年(大正2年)10月10日に胃ガンのため死去した。
数え年67歳であった。
墓所は東京都世田谷区の松陰神社の松陰墓所近くにある。
桂太郎は松下村塾の門下生ではなかったが、吉田松陰を尊敬しており、死去にあたっては、墓所を松陰墓所近くに置くことを遺言したのである。

(桂太郎旧宅のパンフレットより)


桂太郎旧宅入口




桂太郎旧宅の入口





(平成15年7月26日)
庭から見た旧宅 庭から見た旧宅
旧宅の内部 旧宅の内部

萩市指定史跡
桂太郎旧宅の概要

指定年月日 平成10年1月27日
所有者 萩市
所在地 萩市大字川島字川島73番地の2・74番地・75番地
指定面積 905.77u

桂太郎は、1847年(弘化4年)に萩平安古に生まれ、3才の時にこの川島に移り住んだ。
現存する旧宅は、少年時代を過ごした地に、1909年(明治42年)に新築したものである。
主屋しゅおく(床面積69.5m)は派手さを抑え、規模も比較的小さなもので、藍場川あいばがわ沿いの生活を穏やかに楽しむために作られている。
藍場川の水を引き込んだ流水式地泉りゅうすいしきちせん庭園は、建物にやや遅れて造作されたもので、懸石かけいしと呼ばれる萩地方独特の石組いしぐみ等に特徴がある。
この旧宅は、1948年(昭和23年)に、桂太郎の孫の桂廣太郎氏から当時の川島親睦会に寄贈され、川島町内会が管理してきた。
しかし、1997年(平成9年)桂太郎誕生150周年を機に、市民共有の文化財として保存・活用を図るため、川島町内会から萩市に寄贈されたものである。
萩市では1998年(平成10年)1月27日に萩市指定史跡に指定し、同年7月から1999年(平成11年)3月にかけて保存修理工事を実施した。

(旧宅のパンフレットより)

旧宅の庭に建つ銅像 銅像は旧宅の庭に建っています

この銅像は拓殖大学が創立100周年を記念して萩市に寄贈したものです。
大正3年6月に製作された拓殖大学の原像(彫刻家・武石弘三郎の作)を再現したものだそうです。

ニコポン宰相

「ニコポン宰相」とは桂太郎総理のニックネームです。
人に接する時にニコニコと笑いかけてポンと肩を軽く叩いて相手の気持ちを掴むやり方をするので、このニックネームが付いたそうです。


拓殖大学

桂太郎は台湾総督を務めたことで、台湾で活躍できる人材の養成に熱心だった。
「台湾協会で学校を作り、台湾語を教え、台湾で働くことを志す日本人に便宜を図ろう」という趣旨のもとに『台湾協会学校』が明治33年(1900年)に創立された。
初代校長には、台湾協会会頭だった桂太郎が就任。
この『台湾協会学校』が現在の『拓殖大学』の前身である。

参考:『歴史街道 2001年5月号)』

(平成18年2月16日追記)


第1次桂内閣

第4次伊藤博文内閣総辞職後、後を継ぐべき内閣の首班者の選考は困難を極めた。
天皇は、山県有朋・松方正義・井上馨西郷従道の4元老に相談。
持ち回りで、井上馨が桂太郎を陸相に、渋沢栄一を蔵相に推す計画で組閣に当たるが、2人から入閣を拒否され井上内閣は流産。
4元老の更なる協議の結果、桂太郎を推薦することになり、大命が下り、明治34年6月2日、桂内閣が成立した。
明治35年12月6日召集の第17議会で政府は海軍拡張案と地租増徴案を提出。
野党の立憲政友党(伊藤博文)は海軍拡張案には賛成、地租増徴案には反対の態度を執り、憲政本党(大隈重信)も地租増徴案には反対を表明していたので、一致して政府に当たることとなり、他の政党も同調。
これにより桂内閣は孤立無援となり、政府は5日間の停会を奉請し、その間に議員の買収・誘惑を図り、各派の結束を破ろうとしたが失敗。
更に1週間停会したが、万策尽きた桂内閣は衆議院が地租増徴案を評決しようとしたところ、突然議会の解散を断行した。
解散後の総選挙は野党の大勝となり桂内閣は苦境に陥る。
桂は親分の山県有朋に泣きつき、彼の力に頼って政友会との妥協を図る。
山県は日露間の関係が次第に緊迫している情勢であるから、桂内閣を援助して欲しいと国際情勢の悪化を理由に伊藤をくどき、伊藤は党幹部に相談もなく妥協に内諾を与える。
政府は地租増徴案を撤回し、代わり財源として公債発行・鉄道繰延・電話電信繰延・行財政整理の妥協案を提出。
明治37年2月6日、日露国交断絶、10日に宣戦布告となったため、野党は一斉に政府攻撃の矛を収めた。
しかし、日露戦争が終結すると、戦時中攻撃を中止していた野党は攻勢に転ずべき形勢を示したため、桂は怖気づいて第23議会が開かれると間もなく、西園寺公望(政友会総裁)を後継者に推して総辞職した。

参考:伊佐秀雄著『尾崎行雄』

(平成19年3月13日追記)

この桂内閣は、それまで元老の間にタライまわしにされていた政権に替って、元老でない者によって初めてつくられた内閣であった。
そこで世人がこれを称して、少壮内閣または後進内閣と言ったという。
また、この新内閣は不言実行をそのモットーとしてうたったので、沈黙内閣のアダ名を冠せられた。

(参考:千早正隆著『海軍経営者 山本権兵衛』プレジデント社・1986年第1刷)

(平成21年2月2日追記)


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